昭和47年12月02日 朝の御理解
御理解 第18節
お話の途中から 今朝の御理解は第18節と思われる。
両人の手でおありになる、いわば肥タゴをてでさったであろう、いわばばやんこようひょげござったと、そして段々神格を受けられていうなら、生神金光大神のと言うところまで御神格を頂かれ、進めておいでられた。教祖金光大神が特別の人特別の方、もうそれは不思議極まる、例えばキリストのような処女受胎をされたとか、お釈迦様の様に王子様の位を持っておいでられたとか、と言う事ではない、まぁ言うならばいち水飲み百姓に過ぎなかった、小作農であった。
それで段々一生懸命陰日向なしにお働きになって、村で屈指のいわばお百姓になられましたけれども、もう誰彼とひとっつも変らない、その方が今から神、神と言われる様になられ、天地の親神様からも、この方生神金光大神になって神が世に出たと、言われるほどしのところまで信心を進められた。それで自分の頂かれた事を皆んなに伝えておられる、その最も言わば変った御理解として言える。この18節はね。私の様な無学の百姓でもここまでなれたんだから、誰でも皆んなその気になればなれるんぞと。
教えられておるこの方ばかりではない、この方がおかげの受け始めである。だから皆んなもこの様なおかげが受けれれるとこう仰せられるのですから、私共ね金光様の御信心御神縁を頂いた者がです、全部その生神を目指すところの、信心をさえて頂かなければいけない。日々をおかげの中に暮らさして頂くのでございますから、本当に思えば思う程勿体無い。思えば思う程有り難い。その有り難いと言う心がおかげを呼ぶ。真に有り難いと思う心すぐにみかげの始めとこう仰る。
そこで有り難いと思えれると言う事のために、信心の稽古をさしてもらう。きのう一昨日、日田の綾部さんお礼参拝されて、それぞれの方がもう縁に着かれました。そりゃもう本当に様々な問題がありましたけれども。もうどげん考えても神様の御働きには畏れ入ってしまう。そのどんな時でもと言うのが、いちいちお取次ぎを頂いて、御神意のままにいわば、親先生が言われる通ぉりの事をさせて頂いて、夢にも思わない様な素晴らしいところにご縁があって。
またその御主人になると言う方が、もうそりゃ本当に神様があのう定めなさったかの御主人だなぁ、婿さんだなぁと思う程まぁ素晴らしいです。言うなら相応しいんです、日田の綾部家にふさわしい所にその縁組が出来た。のであちらに今度わざわざ新調、いわゆるそのう新郎新婦の為にぼうしんなりが出来た。ですから新婚旅行から帰って来られるまで、留守番をあちらに為に随分長くあちらにおられまして、きのう一昨日帰って見えられまして、一昨日さきおととい帰って見えて昨日、一昨日お礼に出て来た。
きのう月次祭に参っておられて、後からまた大変大きな問題があって、その事のお伺いさしてもらわんならんからと言うて、お月次祭の後に残って居られます。それでまぁその事をお取次ぎさせて頂いたんですけれども、そういう大きな例えば問題ですけれども、あのう親先生が右とおっしゃりゃ右にさせて頂くと言う事がです、そのう安心して任せられるところまでおかげを受けておられる。もう大変子供さんまえで、しかもここのあのう長女の方の掛けられたそのう思いと言うなものは。
取分け近所近隣の者がそのう、覗い知る事が出来る程しに、まぁ目の中いうなら入れても痛くない程に可愛がられた娘さん。それで皆んながそのう寂しなられたであろう、悲しかろうと、あなたの事だから毎日随分その惜しかろうと、悲しかろうと。と言うてくれてるんですけれども。しかし私は信心がもしなかったらですね、本当に皆さんが言われる様に悲しかっただろう、惜しいがついただろうそして寂しいだろう。よいやとうの事であろう。ところが親先生もうそれが更々ありません。
更々ないと言うがむしろ只もう目を瞑って、あの人達の事を思うと涙がこぼれる程有り難い。だからもし私に涙が流れて居るなら、これは有り難涙ですよと言うたと言うんです。皆さんが言われるのに対して、そりゃ子供を20何年間手塩にかけて育てて、そして家具大きなトラックに2台か3台か荷物だけでも行ったと言うんですから、たいしたふつけもしてやられたわけでしょう。それはね寂しいとか悲しいとかという事よりも、有り難いと言う心がずぅっと大きいですから。
いわゆる寂しいとか悲しいなんかは、もうそれに差し引いたらもう消えてしまう程しのもの、だからの残るものは有り難いと言うだけだと。信心されてどの位でしょうかね、まぁ3年位でしょうかね、その間段々信心がこう佳境に行って来ると言うか、佳境に入ると言うとなんですけれども、本当に成程一心にお縋りさせて頂いて、神様任せにならせて頂くと言う事が、この様のおかげを頂く事かと言う事が分かって来た。その問題だけでもいろんなあれだけの大きなお商売なさっておられますから。
もうそこには問題が3年間の間にあった。けれどもどの一つとても神様にお縋りをするだけではなくて、任せ仕切っておかげを頂いて行けばです。おかげが受けられると言う大体確信が出来て、夕べの問題でもそうです、もう人間の知恵力で右左ときめられない程しの問題であった。丁度ここのお祭典中に電話が掛かって来て、そしてとにかくあなたがあちらにいっとられるから、ぶっしんを頂いて帰って下さいという事であった。それで親先生が右と仰りゃ右に決めて。でというのでございますけれどもですね。
おかげを頂いてその有り難いと言う事が勿体無いと言う事がです、そこそこ難儀はあるけれども、なら悲しい事も寂しい事もあるけれどもです、その有り難いと言う心が照らされたら、もうそれは消えたなくなる程しのもの、小さい光の前に例えば大きな光がここにありますと、この小さい光はもう全然光感じない様なもんです。喜びの信心の喜びの言うならば光に照らされた、いろいろな問題と言うものはもう消えてしまったかの様に、ただ光の信心の光がぷつっと消えると。
はっきりと難儀と言うものがそこに見えて来る訳です。だからそういうところもお互いある訳ですよね。一つの問題がある、もう腹が立つ問題もありゃ不安な問題もある。心配な問題がある、その不安な問題も信心の喜びがある時には、もうぜんぜん不安ではないけれども、信心の光が消えた途端に、この不安な問題と言うのが大きくうろうなって咲いて来ない。だからもうその難儀に押し潰される様な感じがするけれども、そこに一心の信心をさせて頂く事によって。
信心の光というか安心のっと言うか喜びというか、そういう喜びの光が大きくなってまいりますと、この難儀と言うものはもう影をこうひそめてしまう。あるのはあるけれどももう見えなくなる。感じなくなる。親先生任せになっときゃ、言うなら大舟に乗った気持ちでおれれる様なところまで、信心をだんだん進めて参ります。私は信心さして頂いてです、信心の喜びはだんだん大きくなって、そしてそこに安らぎの生活、安心の生活が頂けれると言う事しかもそれは限りがない。
もっともっと大きな喜びがある、もっともっと言うなら安心のきょうじというのが、スキット本当なものになって行くと言う事がです、私は楽しみになると言う信心を、私はここでは教えておられると思うですね。此の方の事を神神と言うがと、様々ないわゆる難儀に出会わせられるたんびんに、神様の仰せとおわびに仕られて、そしておかげを受けて来られた。この神様に一身にお縋りしていけば、おかげが頂けれる確信がいよいよ持たれる様になられた。
そして自分の安心喜びだけではない、それを神様のご依頼を受けられて、難儀な氏子をお取次ぎなさる事になって来たら、自分だけではなくて自分の後に繋がって来る信者の中から、なるほど神神と人から言われる様な人達が段々出来て来た。教祖のご時代にでもやはり金光大神の御神格を受けられた先生方がおられます。佐江崎の金光大神とかね。片岡次郎四郎先生ですか、斎藤又三郎先生なんかいわゆる、金光大神と言う御神格を受けられる程しの、いうなら教祖金光大神の信心を頂かれた方の中から出来て来た。
なら小倉当りでもそうです。小倉の生神様と言われる程しの、桂松平先生がおいでになられたかと思うたら、そのお弟子の中に本当に生神の境地、金光大神の境地を受けられたのであろうと思われる程しの、御比礼が立つ教会が次々と出来て来た。近くは甘木なんかもそうであった。久留米ね福岡と言う様にです、そういう例えばお徳を受けられる先生方の場合はです、今言う例えば綾部さんのそのう例を取って申しましたがです、どんなに苦しい事があっても悩みがあっても。
神様に必死の御縋りしてお任せするところの生き方からで。なるほど神様任せになっておればこの様な、夢にも思わなかった様なおかげが単会して来る。それは実は寂しい事であるかも知れん悲しい事であるかも知れんけれども、そげなだんじゃない。もし私が涙をこぼしておるならありがた涙だと言えるほどしのおかげです、いわゆる信心のある者とない者の違いがはっきり、もしこれに信心がなかったらいのぶとはどれ位い、いわば取り乱した心と言うか寂しいか分からない。
ただあるものは有り難い、もう神様の働きには恐れ入ってしまうと言う生活が出来てくる。ですからその恐れ入ってしまうと言うその生活が、もっともっと広く大きく深く頂ける様になる限りがない。そういう生き方を目指すのは、生神を目指す信心だと思うのです。ですからやはりそこに姿勢を向けなければ駄目です。いんにゃもう私しゃおかげさえ頂けりゃよかって、もううち商売が繁盛さえすりゃよかっと、病気がなおりさえすりゃよかっと言った様のものではななくて。
成程そういうところからおかげを頂いて、一心にお縋りをしておかげを受けて、神様のお働きをいよいよ実感するとね、神様のおかげを感じて本当に、神様なしにはもう生きられないと言うところまで、お互い信心が進められていって、いよいよ生神を目指し。そこからです私は神の機感にかのうた信心が、段々出来て来るのであり。いやそうならなければ居られないのであり、ばからしいのである。神の機感にかのうた氏子ね、神様のお心にかのうた人間氏子にお取立て頂く事を願う。その事に精進する。
ここ2、3日言われております様に、例えば人を責めると言った様な事を、自分の言うならば思いの中から、更々ないと言うところまでです、例えば心の清まりと言うか高められて行く事を願うと言う信心。これはですね、私がここに最悪思よることは、もう本気でいよいよあのう人を責めんと言う事に徹底したら、血になって肉になったらね絶対お徳を受けますよ。いわゆる神様になれますよ。教祖の仰るところの神ですよ。なら教祖の仰るところの神様と言うのは。
こう白髪を生やして雲の上に乗らんとか、雲や霞を食べてござると言う神様じゃないのです。高天原にござると言う神様ではないのです。教祖が仰るのはここにはっきりと教えておられますように、生神とはここに神が生まれると言う事であってと仰せられとる。生神とはここ神が生まれるのである。自分の心の中から生神が誕生するのである。それが有り難いなぁ勿体無いなぁと、自分位なものにこの様なおかげを頂いて、有り難い事だ勿体無い事だと言う心と同時に。
私共が改まりに改まり清まりに清まらして頂いて、例えて申しますなら人を責めると言うな事はもう金輪際しないぞと、いや責める段じゃない却ってそれが祈りれれる。昨日久留米の佐田さんがこの御理解を頂きながら頂かれたと言うのが、丹念と観念という事を頂かれた。いわゆる観念的な信心、昨日の御理解を頂くと、5と5と足せば10になる。これがお互いの観念ですね。けれども昨日の御理解を丹念に丹念に頂いたら、それをまぁきす言うならば今日私が言うておる。
もう本気でです観念に人を責めると言った様な事のない私にならして頂く。観念にそこをどうよさせて頂いておこると、観念が亡くなって来る。5と5を足せば10になると言った様なもんじゃなくて、それこそ夢にも思わなかった様なおかげの展開になってくるのですから。その観念がなくなる。例えばなら私達があのういろんな病気を持ってますよ。けれども私の観念のなかにゃ、病気の観念は更々ないですからね。皆さんが御承知の通りですよ。腎臓病と言われまたは糖尿病だと言われる。
それで沢山こうやって私お水を頂く、けれども私御水じゃなくても、糖尿病じゃけん頂きょるといっちょん思ようらんです。それでも御水をたせばね、もうそれこそ日に一升ぐらいじゃきかんぐらい頂くでしょうけれどもです。もうそれこそ内臓を清めて頂いとると言う様な思いが一番強いです。と同時にです普通糖尿病にならなければ、こげな水の美味しさと言うものは皆んな分かるまいと思うて、とにかく有り難いです。随分喉の乾く時に頂くお水と言うのは美味しいですがです。もうそれは格段の美味しさです。
はぁ水がなかちゅうならなんだけれども、ちゃっとこう何時もね美しい美味しいしかもあのう氷のように冷たい水をです。だから糖尿病に甘いものはいかんですよ、酒は辛いものはいかんですよっと、腹一杯食べさしちゃいけんですよと。これが今の現代医学なんです。ところがどうですかもう皆んながたまがる様に私は大食家です。その間にゃあのう私は大変唐芋が好きですから、腹いっぱいご飯頂いとっても、唐芋ども頂くと又入るごとと芋を頂きます。もう一番いけない糖尿病には。
もちろんぼた餅も食べれば善哉も食べます。お酒も毎日最近のごとありゃお客さんがありますから毎日頂いておる。そりゃ私は糖尿病と言う病気の観念が全然ないからなんです。だからもう遊び半分のものはね、観念の揺るぎと言う事を申します。揺るぎがないそれはなら私がある意味合いに於いてです、神様の言教えを丹念に行じておるからなんです。例え10を一つ書かして頂くでも、何だってこうこうやって書くよりも、やはり丹念に書いたのがいいでしょう実意丁寧に。正確に書くこれを丹念にと言うのです。
ですからなら私今あのう申しております、もう人を絶対に責めない責める心と言うものは更々ない、責めないと言う事になるとですね、自分がもう不平不足を全然言わんで済む自分になってる事に気が付くです。もうこの不平不足を言わんですむだけでもです、もうおかげを受けれれる器がもう出来ていきょる。どうぞ馬鹿と阿呆で道を開けと仰る訳です。もう本当に馬鹿と阿呆に成っとらなければ、もうおもしとなってくるです。何故って。それこそあのイワンの馬鹿ではないですけれどもです。
どれだけ人に騙されても騙されても、どんなに人に無理をいわれても無理をいわれてもです、とにかく限りなく頂いるのは、そのイワンであります様にあります様にですね。私の場合そうです限りがない。もうこれは5と5と足せば10になると言った様な観念的なもんじゃない。それこそ実際は5と5としか足しておらんけれども、答えはもうそれこそ5,5、25と言った様な答が出て来ておる。それはもう驚くばかり、そういう生き方を進める事がです、私は生神への道である。
ですから私のここで本当にこういうな場合責めんですむと言う事は、こう言う大変な事を馬鹿と阿呆になって俺れるという事は、まぁ何と有り難い事だろうかと思う心が生神なんだと。生神とは和賀心が我ながら拝めれる様な心。私しゃ本当におかげを頂いとるなぁ、私しゃ助かってるなぁと、私くしはまぁほんになんちゅう有り難い心を持っておるこっちゃろかと思うて、自分で自分の心を拝みたい様な心。それが生神なんだ。和賀心が自分で拝みたい心。
それが段々もちろん自分と言うものを見極めていく時に、それとは反対に本当にそれこそ大きな信心の光に照らされますから、自分の心の隅々までが見えて来る。今までこの位な事は当たり前、この位な事当たり前と思うておったその心の中に、まぁだまぁだこういう汚い心が何と浅ましいこんな心が動きょる。とそれに触れる事も有ります、又触れなければ嘘、これを信心が掘り下げられるという事自分の心が掘り下げられていく。それだからいよいよ私の様なものに、私のような浅ましい人間に。
かく迄のおかげを頂いてというて、おかげの世界が非常に大きく広くなって来る訳です。同時になら自分の心が人を責めるとか憎むとかね、ねたむとかね。それこそ憎い可愛いと言った様な心がです。可愛いと言うのはです、可愛いと思う心が神心と言う可愛いじゃないのです。可愛いというのはそうですね、あのう好きな物ば可愛がるあの可愛いです。あれはあのうおかげ受けれれない心です。それこそ目の中に入れたっちゃ痛くないちゅごたる可愛いがる方は、これはおかげを受けられない心です。
だからそういう心がです段々取れていく、憎むとか、ねたむとか、惜しいとか欲しいとかと言った様な心がだんだん影を潜めて来る。ですからどれもこれもとは言わんでも、最近なら今私申しております、人を責める様な事はと言う事になって参りますとです、どう言う事にでもだんだん触れて行くようです、これ一つで。でこの事を丹念におかげを頂いて参りますとですね、5と5と足してから20にも30にもなりますから、はぁ神様の働きには負え俺行ってしまいますから。
その恐れ入ったその心がです、いよいよ丹念に自分の心を見極め、又は清め磨かして頂くと言う事に、丹念にそれが出来る様になって来る。増々有り難く有り難いと頂いたものは強うなって来る。私はあのうおかげは和賀心にあると仰る、そういうそのう和らぎ賀ぶ心と言った様なものはね、本気で一生懸命修行し一生懸命働かなければ頂ける心じゃないと思うですね。ただ安気安穏にしとって風も吹かにゃ、言うならば雨もない平穏無事、はぁにゃ有り難いち言いよるとは、それは本当の和賀心じゃないです。
和賀心と言うのは本当に、本当に修行さして貰うと言う心。夕べの月次祭に申しました様に、例えば朝参りをする、ところが時間に遅れた。はぁもう5時にもなる。もうしよんなか今日はなら御無礼しょう。と言う心はおがげにおかげのいわゆるお徳の受けられる心ではない。そりゃ人間だからあります。はぁもうながれたもうすぐ5時じゃん、と布団を蹴って済みませんと言うてからひっくり返って、遅かっても走ってやって来るような心にお徳が頂ける。こりゃ夕べの御理解の中にそういうのですね。
もう今日は寝忘れちからもう遅うなったけんで今頃参ったっちゃどう、もう御理解もすんどるけんで、もう今日は御無礼しょうっちから楽な方なんです。これはお徳の受けれれない心です。今日私が申します例えばなら和賀心が神に向こうて行くという、その過程と言うものはもう生き生きとしたね、もう弾かれる様なビチビチした心。そういう心で自分の心に取り組ませて頂いてです、我ながらわが心を拝める様な心の状態をです、はぁなるほどこの調子で行きゃ私も生神様に成れるぞっと言う事になるのです。
生神とはここに神が生まれると言う事、それはもう教祖様のいわば専売特許、いわゆるこりゃ金光様の先生じゃっとん、未学習の中にはそんな事は思わんでよかろう。と言うのじゃない。金光様の信心を頂いとる、いまここに参って来る皆と仰とられます。ここへ参っておる人々が皆神の氏子じゃと申されている。本質的に神の氏子としてのものを頂いておるのですから、それがいわゆる精進により言うならば磨く事により、例えて言うならば人を責める様な心が段々なくなって。
もう更々無くなって来るようなその課程がですね、生神に向っているいわゆる姿なんです。だから自分が嬉しゅうて楽しゅうてたまらん。それでもやはり幾ら神様でちゃ雨も降りゃ風も吹くけれどもです。そのしるしい事がです有り難いと言うその心に照らされたら、もうしるしいも感じんで済む程しのおかげの状態、心の状態というものが、いわば少しばかり学問をすると、そのういわゆる観念の遊戯に捉われてしまう。神様を観念的な神様にしてしまう。
もう限りがない。いわゆる観念が取れて行く為には、只今申します様な修行をです。丹念に行じさせて頂く事に精進させて頂くならばです。もう観念が変わってしまうのです。例えば医者は私は糖尿病で言い腎臓病と言う。なら私が椛目の時代にいうに、足がなえて立たなかった事がありましたよね、皆さんがご承知の通り。今日もその事に対してはもう本当にあのう不安もなからなければ、不平もない不足もない。ここで坐っておるだけは楽ですからもういよいよこりゃ。
誠心お取次ぎの御用が出来るぞと、思うて却って有り難かったです。こりゃ嘘じゃない本当ですよ。もう足がなえた時何年か続きました。いわゆる観念に捉われたらとても医者にかからなければ居られないでしょう。なんとか治療でもしなければおられないでしょう。それが丹念な信心が段々出来て行く事によって、なら観念が無くなってしまう。観念のない世界に住む事が出来る。そこの所を滅法界と私は言っておる。滅法界。こげんすりゃ罰かぶると言った様ないうなら法則があるけれども。
こげんしても罰かぶらんで済む世界。言うなら何を食べても何を飲んでも体に障らんと言う世界がある。これはそのう尿の検査だけでは分からん事でございましょうけれども、この頃から高橋さん毎月計って下さるんですよ。から尿を検査して下さる。ところがこの頃もうもう殆ど糖が出ないんです。ただ糖が出らんのが糖尿病が全快したと言う事ではないらしいですけれども。理屈ではそれこそ合わないところのおかげが、私の身体の上にもそれを感じる。
そういうおかげがです、言うなら夢にも思わなかった様なおかげになって来るのです。此の方がおかげの受け始め、皆んなもその通りにおかげを受けられると仰せられるのですから、私共もいんにゃ私なんかそげななんて言わずに、それば思わなければ金光様のご信者じゃない。神を目指さなければ。しかもその神と言うのは先ほども申します様にね、和賀心から生れて来るもの。
神とは生神とは神がここに生れると言う事であってと言う様なです、神を生みなして行くところの生活。そういう信心生活をです楽しまして頂く。うんこの調子で行きゃ私もいよいよ神様に成れるぞと、というその神様になって行けれる印がです、夢にも思わなかった様なおかげがつながって来る。いやぁ私は神様がいくら威張ったところで、その人が難儀してござるならばそりゃ神様と言えないと思うですね。
もう皆さんに徹底していわゆる、それこそ観念にです行じて頂きたい。それはここ私は3,4日体験さして頂いておる、皆さんんも密に体験しておられる。人を責めると言う事を自分の心からもう完璧にです、無くして行く精進をです丹念になさるならばです、そりゃもう既に和賀心が神に向こうて居る姿なのですから。神様の機関に叶う心の状態を目指して居るのですから、おかげが頂かれると思うですね。
どうぞ。